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2012年2月28日火曜日

クロージングトーク「演劇とダンス/身体の境界線」

2/4 21:00〜22:00 会場:UrBANGUILD

トーク司会進行:森山直人/参加アーティスト:筒井潤、相模友士郎、多田淳之介(写真左から)


森山:日本のコンテンポラリーダンスは、佐藤まいみさんというプロデュサーが手がけた先駆的なダンスフェスティバル「ヨコハマ・アートウェーブ’89」あたりをきっかけに、ここ20年余で定着してきました。今回のプログラム・ディレクターのきたまりさんも、昨日のトークセッションで時代意識に言及なさっていましたが、それなりに時間は経ったわけです。ところで皆さんは演劇の場からダンスをどのように見ていたのか、それぞれのダンスとの関わりを伺いたいと思います。筒井さんはいかがですか?
筒井:僕がダンスに関わるきっかけは、演劇の興味の延長だったんですよ。台詞に対する演出はできても、その時の佇まいが何かつまらなくて。身体の扱い方をもう少しなんとかならないものかと思って、コンテンポラリーダンスの振付家のワークショップに参加し始めたんです。そんなときに山下残さんのワークショップに参加して、次回作の『透明人間』(2004年)にいきなり出演することになってしまったんです。ダンスを本格的に観るようになったのは、自分が踊り始めてからです。
森山:当時、演劇とダンスにジャンルの壁があったんですね。
筒井:はい。今は違う状況になりつつあると思いますが、それは造形大や近大の存在が大きかったと思います。

相模:僕は京都造形芸術大学出身で、もともと映像専攻だったんです。舞台コースでは太田省吾さんや舞踏出身ダンサーの山田せつ子さんや岩下徹さんが教えていたんですが、舞台に強く惹かれたきっかけは、細江英公が撮った土方巽の写真集「鎌鼬(かまいたち)」を見たからなんです。それは、ちょっと驚いたというか、自分の身体を外に投げ出すような写真集だったんですよね。それで、岩下さんの授業を受けました。2004年、僕が1回生か2回生の頃です。だから、舞踏への関心がまずあって、そこから身体に興味を持って、その先にダンスじゃなくて、演劇があったっていう感じです。
森山:相模さんはいきなり出会っちゃった訳ですよね。それがなければ、舞台そのものをやってない可能性が多いにありますよね。
相模:そうですね。土方巽の写真集を見ていなかったら、岩下さんの踊りを観ても踊りというか「くねくねしてる」って事にしかならなかった。それが、その人が何故こんなにくねくねしているのか、実際にやってみると「俺もなんか案外くねくねするな」みたいな翻った感じはあったと思います。
森山:それは、案外大きな発見ですね。多田さんは、いかがでしょう。

多田:僕はコンテンポラリーダンスと出会っている途中です。最近ダンスの友達も増えて、一番仲良いのが白神ももこで、次がきたまりなんですけど(笑)。それまでダンスは観てなかったんですが、白神さんの舞台を観て興味を持つようになった。それは単純に自分が演劇に対して求めているものと被るからで、時間や空間に切実さを持っているダンスの作品を観ると面白いと思う。また、ジャンルは違っても舞台芸術という点では共通点は多いと考えています。
森山:演劇とダンスというと、誰でも思い出すのは岡田利規さんです。チェルフィッチュ的なものは、小劇場演劇の創造力とダンス的な想像力のつなぎ目のような役割を果たしたと思うんです。多田さんの場合は、自分の表現を追求しているうちに自然にダンスに出会ったという感じですか?


多田:僕の作品は“身体性”についてよく言われるんですが、演劇とダンスの身体性は何か違う様な気がしています。役者とダンサーの違いを考えると、ダンサーは踊ることが出来て、踊りで存在することが出来る。今回上演した『RE/PLAY』では、踊ることで存在する事が出来る人たちを使って、自分が演劇で培ったものでなにか作れないかなと考えました。今回のメンバーはきたまりが集めてくれたんですけど、稽古も5回しかないので、『再/生』ではなく2006年版『再生』の30分を三回繰り返すという方法で創る予定でした。ただ稽古で色々試したり話したりして、ダンサーと僕で作るならこっちが良いだろうと言う事になりまして、キャリアのあるダンサーが多かったので色々話しながら作れたのも良かったです。でもダンス版は、俳優版の『再/生』より演劇度は自分としては強いんです。選曲や使い方も。俳優は人間そのものとして存在してもらいますが、ダンサーは人間ではないものとの狭間を行き来してもらうようなイメージ。踊りによって存在する事で、人間以外のものとして存在できるというイメージで、何によってそこに存在するかはかなり違うと思ってます。
森山:振付はどの程度つけたんですか?
多田:ゼロですね。完璧に好きにやってくれと。構成だけ決めて、振付は自分たちでお互い干渉せずに一人で作ってくださいと。
森山:音のタイミングは、多田さんが決めているんですか?
多田:そうです。何回も繰り返すシーンで使っている曲「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」は、何週目からは何秒で入れるとか、軽くは決めていますね。
森山:あれだけ繰り返すと、人間の身体はいかに繰り返す事を拒絶するものかという事がものすごく滲み出てくる。それからいろんな段階がありますよね。拒絶する段階と開き直る段階、開き直ることも出来なくなる段階とか。改めて今、演出家としての感想は?
多田:お疲れさまでした。っていうか、本当にありがとうございました。
森山:まぁ考えてみたら、それ以外に言いようがなくはないですね(笑)。多田さんの作品について、お二人はいかがですか?


筒井:今回3人の作品は、音楽の使い方が印象的やなと思ったんですけど、選曲の理由ってあるんですか?
多田:一応自分的なストーリーに乗せているというような感じですね。サザンオールスターズの「TSUNAMI」は時間の話でもあると思っていて、後半の相対性理論「ミス・パラレルワールド」と「ラストダンスは私に」はストーリー。稽古でいろいろ試してみて、ノイズをかけるとダンスに見えるんだけど、Perfumeをかけると歌詞によって舞台上にいる人が何かの人物にみえたり。今回は歌詞あった方がいいだろうと思いました。
相模:あの作品では、動いてる/停止してる/崩れ落ちてる、という3つの動きがある。その3つである理由は何かあるんですか?それとも、そういう動きを入れてくれと言っているんですか?
多田:入れてください、と言ってます。その割合も、この辺から倒れるのを入れてくださいとか。止まるのは、止まれないっていう事がやりたくて。倒れるのは、立ち上がりたくて倒れてるというような感じです。
相模:立ち上がりたくて倒れるって、どういうことですか?
多田:立ち上がってる姿が好きという僕の趣味もあるんですが、突然脈略なく何かが終わるというのが、倒れることでもあるんです。終わりのイメージというのが強くあって、終わった所からもう一回出てくるようなイメージですね。
森山:だから、動き自体は何度もバザ、バサって終わるんだけど、作品自体は全く終わらずに続いていくっていう。
多田:そうですね。ひたすら時間だけは流れ続ける。

森山:相模さんの作品『先制のイメージ』ですが、「ダンサー1名」という希望を出されたと伺っているんですが、なぜですか?
相模:僕自身ダンスをずっとやって来た人と作業をすることが始めてだったので、単純に一人のダンサーとじっくり付き合うという事をしたかった。前提として僕が振付を作ることは難しいだろうし、ダンサーにある振りを作ってもらって何かをやるっていう事もしたくないなと思っていた。そこで、演劇として扱う身体と、ダンスとして扱う身体との違いや共通点を丁寧に検証していって、それを僕がどのように見て、観客にどのように出会わせるかをやってみたいと思った。一人のダンサーと一人の見る側としての演出家としての差異と同調を稽古場の中で確かめていくには一人が絶対いいだろうと。
森山:つまりダンス作品を作るっていう名目はあるんだけれども、むしろ演劇とダンスの接点を探していくという作り方だったということですよね。相模さんにとって、演劇とダンスの作品の作り方の違いはどこにあるのですか?
相模:僕が演劇を作る時は、演劇が持っている制度からどう抜けて行くのか/向かい入れて行くのかが問題としてある。それを今回はダンスを作るという宣言をした時に、ダンス自体が持っている制度をどうしても意識せざるを得なくなってくる。僕自身も演劇の演出家として外部的にダンスを見ていく、ということではなくて、ダンスが持つ制度の中から演劇とダンスの両方をみていくというように見る目をシフトしないと、ダンサーと一緒に作る、ということから外れてしまう感じがあって。
森山:決定的な事実として、目の前にいる人がダンサーだっていうことはあるのかしら?
相模:そうですね、ダンサーの野田まどかさんに、あまり僕がこうあるべきだっていう身体のありようを一方的に与えない方がいいんじゃないかと。


森山:この舞台で改めてダンサーってこういうことが出来るんだ、こういう身体の動きってあるんだって感じがして新鮮な体験だった。こういう見方でダンサーの身体をみたことはあまりないなと。最初に相模さんが舞台上でコカコーラの話をするんですが、内容以前に、観客の視点をシフトする装置として使っていたんですか?
相模:僕自身ダンスを観る時に、この身振りにどういう暗号が隠されていて何を表象しようとしているのかを探ろうとする目がすごく鬱陶しいなと思うんですよ。結局、その身振りに対してそこに隠されている暗号を解読出来たかどうかが、そのダンスを観たことに関するある一つの価値としてあると。今回は野田さんっていうダンサーがいて僕は延々とその野田さんの動きを見ているだけなんですけれども、その時にはもうすでに、僕と野田さんの間には前提となる共有されたイメージがある。そこで動いているからだと、前提とされるイメージを照らし合わせながら見える/見えないを知覚するという演出的な目をそのまま観客に渡せるかって事をやりたかったんです。コカコーラに関しては、その導入としてありながら舞台上で行われている事とパラレルな関係として対置できればと思ってました。

森山:多田さん、相模さんの作品はいかがでしたか?
多田:いやー、すげー面白かったんですけども。稽古はいつ頃からやってたんですか?
相模:12月の頭からです。2ヶ月やってるように見えないって言われるんですけど。前半は週1回、後半は週3回8時間とかですね。
多田:すごいドSですね。
相模:僕、それを多田さんに言われるとは思わなかったです。
多田:俺はそんな出来ないなぁー。稽古中に結構しつこくやってみたけど、これはダメだったなみたいなことはどんなことですか?
相模:今回の舞台は、ほとんど稽古でやっていたことなんです。起きてから稽古場に着くまでの身振りが出てきて作品が動き始めた感じはあったんですけど。その前は、例えば野田さんが手を挙げる時に、後ろ側に野田さんがいてその手を挙げさせられているという気持ちでやってくださいとか、今度はその動かしていた野田さんをやってくださいという稽古を1〜2週間、40分くらいのセッションを何度もやる。これで一応「we dance」は出来ますねみたい感じで。あとは、イメージの野田さんが実体の野田さんにコーラの缶を持たせに行って、コーラの缶を持った瞬間に今度はイメージと実体が入れ替わる。そうすると、さきほどまでコーラの缶を持っていた実体の野田さんはイメージとして見えないものになってしまうのでコーラの缶だけが抜け落ちますよね、とか。これなんの意味あるの?と一切言われなくて、それは良かったなと。


多田:野田さんにどう思ったか聞きたいですね。突然舞台に出るって言い出したぞ、この人みたいな。
森山:野田さん、コメントありませんか?
野田:ご飯に夢中でした。
森山:すみません、大変だったですか?やっぱり。・・・もうその顔だけで十分です(会場笑)。筒井さんは、相模さんの作品に関してなにかありますか?
筒井:コンセプト自体が凄く良く出来てるなって感心したんですけど、2つ気になることがあります。ひとつは、次やって欲しいことことを説明する時に出てきた「自立」という言葉。あの瞬間に急に(身体の)躍動感が出る。その言葉をいかに自分の中から引き出したのか。そして、もうひとつは話を聞いている時の野田さんに演出したか、という点です。
相模:自立に関して言うと、例えば言葉で話す場合は出来事と出来事の時間が簡単に飛べる訳ですよね。それを身体でやる場合は現在でしかないので、この出来事を表す身振りと次の出来事を表す身振りの間をどうしても繋がざるを得ない。フォルムからフォルムに移動する瞬間に、前にあるイメージがぱんと抜けて、からだの軌道がはっきりみえてくる。その時に、ある前提とされるイメージからからだが抜け落ちるのか、そのイメージを追い越すのかってことはわかんないですけど、速度や身振り、フォルムとフォルムの間をつき詰めていくことによって、そこに或る身体の自発的な動きが見えてくるという意味で使ってます。
多田:相模さんが「奉仕」とも言っていて、奉仕と自立の間に、境界線を見た気がしてます。ここだー!今越えてる越えてる!みたいな感じがあった。確かになにかに奉仕している動きというのはあんまり踊りに見えなくて。演劇は台詞だったり、役に体を奉仕している状態なので、これは凄く分かりやすく境界線をまたいでいるという気がしました。

相模:ありがとうございます。身体とか踊りがあるイメージを作り出すものだって言うことを前提としてみると、イメージに奉仕した身体を見ているんですよね。それを僕は受け取るつもりでみてないよと。僕はイメージを憎んでいるのではなくて、イメージが言葉に回収されること自体を憎んでいる。『先制のイメージ』では、イメージは見る人のまなざしと舞台上にあるからだとの対話を阻害すると思っていて、イメージが言葉から離れていって踊り自体の言語が出てくる瞬間が、恐らく僕自身がダンスに対して期待しているものだと思います。テーマや伝えたいことを表象させるものとして身体があるならば、それは別にダンスでやらなくてもいいんじゃないかと思っています。野田さんが僕の話を聞いている時の演出ですが、お客さんに対して対抗するでもなく素に近い状態で居れたらいいですよねとは言ってました。そのためには僕がどういう風に話しかけるかで違うんですよね。僕が明らかにセリフを読んでる感じになると野田さんも「はい」みたいな固い感じにもなるし。極力野田さんと僕の対話が固定していかないように、僕の方が気をつけていたと思います。
筒井:話を聞いている野田さんと相模さんがその瞬間にデュオに見えるんですよね。相模さんが舞台のコーラの缶を取りに行く時って、実に見事なデュオやなと思うんですよね。あれ、絶妙やな。
相模:あれ僕も結構気持ちいいもんで。


森山:次に、筒井さんの作品『女3人集まるとこういうことになる』ですが、ダンスシアターとしてみればスッと観れる。僕が思い出したのは、映画で割とセリフの少ない、でも仕草一つ一つが登場人物の状況や関係性をクリアに見せてしまうジムジャームシュなんかの映画でした。3人のダンサーと作品を作っていくプロセスは、どういう感じだったんですか。
筒井:僕のチームは、細いけど長い付き合いの福岡まな実さんと、短いけど濃い付き合いだった長洲仁美さんと、初対面だけど向こうからぐいぐい懐に入ってくる倉田翠さんという丁度いいバランスで、第一歩は割とやりやすかったです。実はきたまりさんからは「福岡さんと…」という話があったのですが、僕はソロを作るには色々な経験や何かがないと不安に思っていた。2対1じゃ負けると思って、3人だったらいい輪が出来るかなと思って。まず僕はゼロから振付を作ることは出来ないと思ったのと、日常の身体の延長は良くやられているって思っていたので、チェーホフの『三人姉妹』をベースにしました。そこに、イギリスの作家トニー・パーソンズの同名の小説(原題:「the family way」)、ウッディ・アレンの三人姉妹が出てくる映画のイメージなどをシャッフルさせて、彼女達に佇んでもらったらどうだろうとか、この時にゆっくり動いてもらったらどうだろうということを繰返しながら作っていった。資料を集めている時に具体的な未来図は全くなかったですけど、それらの資料と彼女達がどう対面するかをじっと眺めていて、使える/使えないってことを探っていったんです。

相模:あのーこれ褒めているということで聞いてもらったらいいんですど、相当ペラペラな感じがしたんですよ。身体に形式を持たせたような印象で、三女が行くと、長女がどうしようって振り向くじゃないですか。本当にある感情が見えづらいペラペラな身振りが続いていったような感じがあって、そのペラペラさは意識してたんですか?
筒井:最初に資料の台詞を全部すっとばして、まず動作だけ拾ってやってみましょうっていうのをやってみたんですね。でも、ダンサーに台詞の意味を聞かれるんですよね。あーガッツリ演劇やる気やなと。でも「we dance」やでと思って、そこはそんなに考えなくていいからと。動機としてはテキストだけど、その中の動作と関係を示す立ち位置とかしか僕はやらないでおこうと思った。段々3人が理解してくれてスムーズに稽古が進んだんですけど、最初はものすごい表情作ったりしてて、あぁ困ったなぁという感じが正直ありました。そういうものを剥いでいくことでペラペラ感が出てきたのではないかと思います。
相模:音もね、結構ペラペラした音でした。
筒井:ザ・シャッグスっていう三人姉妹のバンドなんですけど、とにかく演奏が下手で、リズムが無茶苦茶なんですよ。もしノれる音楽をずっと流してると、お客さんどころかダンサーもノっちゃうだろうなっと思って、それを避けたかったので丁度都合がよかったんですよ。リズム楽器がずっと鳴っているけどグルーヴがないから、アンビエントな感じの効果もあったなと。


多田:最初女性3人の話というので「三人姉妹」だと思った。でも、会場の職員室が完全にチェーホフになっていて、なんかモスクワが見えるみたいな。いや、すごい面白かった。あれはジャンル境界線を越える/越えないとかではなくて、二次元に境界線があるとしたら、別の次元のイメージがあった。出演ダンサーは自分が踊っていたと思っていたのかも凄く気になった。例えば、踊るなとか踊っていいとかの作り方はしたんですか?
筒井:意外に演劇っぽくなる瞬間を消すっていう時間が多くて、稽古2週間後にダンサーから「うん、ダンスしてるって感じがちょっとわかってきた」と。その後に「あの、もっと踊りませんか?」みたいなことを言われて、「えー前に十分ダンスぽいって言ってたやん」って。
多田:て、ことはやっぱり踊ってないっていう。
筒井:うーん、ていう感じ。でも僕がリズムを気にし出して、もうちょっと早く振り向いてとか、もうちょっと長くじっとしててとか、多分その辺で彼女達がダンス的感覚をうまく活用して自分の身体を制御したり、動かしたりしていたので、彼女達もダンスぽいアプローチが出来たんじゃないかなと僕は思ってます。
多田:凄く演劇的な演出に対して、彼女達が自分たちの持っているダンスの技術で答えるというような作業で生まれたんじゃないかなと。
筒井:まさにそうですね。

多田:結構不思議なんですよね、踊る/踊らないっていうダンサーの感覚。僕も未だにわからなくて。僕のチームで「今踊ってた?踊ってなかった?」って聞くと、8人結構バラバラだったりするんですね。「私は結構踊ってた」、「私は踊らないようにしてました」とか。どっちなんだろうって。
筒井:踊らないようにしてたって、微妙ですね。
多田:「踊るって何なの」みたいな話も、8人8様で全然ばらばらで逆に面白かった。
森山:その辺り、きたまりさんはどうなんですか?
きたまり:ここ2、3年演劇の人と一緒にやらしてもらってるんですけど、演劇の時は気配を作らないようにはしますね。ダンサーって身体で気配を簡単に作れるんですよね。すぐパンと切り替えられる。今OFFで、じゃスイッチ入れてやろうとか、スイッチを入れないでやろうっていう意識。
森山:ダンススイッチがあるわけですね。
きたまり:演劇の時には、それをやらないようにします。
森山:逆に演劇スイッチってあるのかしら?
多田:俳優スイッチは、あるかもしれないですね。
筒井:僕は、3人のダンサーが演劇スイッチ入ってると、OFFしに行く。
相模:これ余談ですけど、腰に俳優は居るらしい。人から聞いただけなんですけど。
きたまり:じゃダンサーは、地面と天井に居るんじゃないですかね。腰と頭部の上。とりあえず真直ぐ立てという稽古を最初にするから。
森山:腰って、声を出すとか、腹式呼吸とかそういうこと?
相模:いやわかんない、そういうことがあるらしいんですよ。別の作品で一緒に作業してる人が言ってました。縄跳びすると、腰から俳優が立ち現れてくる。
森山:本当ー?(笑)これだけでじっくり2日ぐらい「we dance」シンポジウムできるかもしれないですね。客席から質問はありますか?

Q:筒井さんに質問ですが、先ほど観客とダンサーが音楽にノッてしまうのがいけないというのはどういう意味ですか?
筒井:僕の今回の作品はリズムで客を煽る演出ではなかったので、定期的なリズムのある音楽は避けたかった。観客的な立場で言うと、僕が単純に音楽が好きだからかもしれないんですけど、かっこえー音楽流れてくると、舞台で行われていることよりも、これいい曲やなーって思ってしまう。あえて、音楽で客を煽りたいのであれば、それこそ多田さんの音楽の使い方が正解だと思います。
相模:あの、多田さんの曲の使い方ってどっちにかかってます?ダンサーか、客か?
多田:基本お客さんですね。ダンサーには聞こえてなくても僕はいいんですけど、聞こえていた方が頑張りやすいだろうなっていう感じがある。お客さんに、大きな音をぶつけられている人を観せるという時もある。作品によって違いますが。
森山:それでは、最後にこの企画を仕掛けたきたまりさんから、なにかコメントありますか?
きたまり:私は今回プログラムディレクターとして、この人とやってくれとオファーしたり、人を引き合わせただけで、リハまで作品内容は全然わからなかったんです。今回皆が一緒に作業をすることで、意外な出会い方/作り方であったり、その場の立ち方であったり、そういうものとちゃんと向き合っているような気がして、本当によかったなと思いました。
森山:じゃぁ「We dance京都」、無事成功ということで。
きたまり:充実したプログラムだったと思うんです。かなり動き出したのが遅かったのに、皆さん結構ギリギリな感じでやってくれて、こんなに沢山の人たちが集まってくれるとは思ってもいませんでした。本当に皆さん長時間お付き合いいただきましてありがとうございました。お疲れさまでした。

※舞台写真はすべてゲネプロにて撮影
※編集協力:竹宮華美

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